頑張っている女性達の紹介

テキスタイル デザイナー

新井 明子

プロのデザイナーとして第一線で活躍経験を活かして素描を創作
周囲の利用者との塗り絵制作のひとときを楽しんでいる

■活動内容 紹介

≪萌芽期≫
昭和9年生まれ、出身は東京都。

第2次世界大戦時は小学生だったため栃木県へ疎開した経験があります。都会と田園地帯の違いを実感しました。

終戦後父親は失職しましたが、1920年代アメリカに企業留学、その後ヨーロッパを巡って帰国した経験から英語ができたためGHQの職員になりました。

中学から高校、女子美術大学時代、父がGHQの担当と親しくなるにつれ、新井さんは大佐の娘さん用の残り物の服地やその頃日本では見られなかった女性誌セブンティーンをもらえるようになりました。

このプレゼントされた残り物の服地が「テキスタイルデザイナー新井明子」誕生のきっかけになっていくとは、この時誰も予想だにしませんでした。

■学生~職業人へ

≪デザインの勉強を始める≫
終戦後、杉並区の住宅に住んでいました。今の様なファッションとしての既製服のない時代に新井さんはいただいた服地を最寄りの駅前の洋服の仕立て屋さんに頼んで洋服を作ってもらい、身にまとっていました。
とある日、新井さんの姿が在学中の女子美術大学の先生の眼に留まりました。既製服とは違う柄の衣装が先生の眼には斬新に映ったようです。

「この娘は人と違うファッションセンスを持っている。」先生はそう思ったに違いありません。

「テキスタイルのアルバイトをしないか。」新井さんは先生に誘われて子供向けのアロハシャツを作ってアメリカに輸出する会社にデザインを提供しました。その当時結構なデザイン料をいただけたようです。

≪服地メーカーへ就職 そして独立≫
大学の教授からデザイナーとしての素養を叩き込まれた新井さんは、1957(昭和32年)先生に勧められて「市田株式会社」へ就職しました。「市田株式会社」は現在「ツカモト市田」となっており、和装呉服・服地・アパレル・宝飾などを扱う商社です。この時期の「市田」は、呉服だけでなく服地という新部門にも手を広げようとしていた時期で、新井さんは服地衣装室にてテキスタイルデザインを担当しました。

新井さんは、洋服のデザインは目的があって分析し創作するもの。どうしてこういう服が必要なのか?就職後も外国雑誌を見ながら研究に余念がありませんでした。大学で受けた薫陶をずっと守っていたのです。

「市田」では、目的にあったディレクションをしてデザインを提案すべきと考えてディレクターを務めたいと希望しましたが、室長は「女にはさせられません。」とつれない返事。大喧嘩の末、辞めてしまいました。

■自立独立

≪アコス ファブリックハウス設立≫
1971(昭和46)年37歳のころ、新井さんは思い切って独立しました。設立した会社名は「アコスファブリックハウス」、新井さん自身が代表者になりました。

新井さんは自社企画デザインの服地を制作・販売し、ヨーロッパのファッションに迫る勢いで軌道に乗せ、花井幸子さんなどのオリジナル服を作るようになりました。

森英恵、山本寛斎などが輸入生地を使って自分ブランドを打ち出していたころだったので、アコスファブリックハウスの国産服地の登場はまさに革命的な出来事であったようです。

制作の下請けに中国企業を起用したこともありましたが、コピー商品を作られてしまったので止めました。

≪デザインのメッカで学ぶ≫
現役中の新井さんは自己研鑽を怠りませんでした。1ドル360円の時代、旦那さんが1400ドル、顧問会社が研修費の枠を取って600ドルを負担し、合計2,000ドルの資金を確保して1年間に春秋2回は旅に出ていました。外遊は数回にわたり、パリ、ベニス、ミラノ、ニューヨークの服地コレクションの展示会を巡り、市場はどうなっているか、テキスタイルデザインの状況、女性の仕事現場を食い入るように観て回りました。そして帰国する度に「一生仕事するんだ」という決意を強くしました。

こうして基礎がしっかりした生涯現役のテキスタイルデザイナーが誕生したのです。

≪人に教える≫
その後、1980年~2000年代の新井さんは、日本各地の服地のデザインコンクールの審査員を務めます。
そして2006(平成18)年デザインを教える立場になりました。文化ファッション学院大から客員教授として教鞭に立つことを求められたのです。
高名になるにつれ、アコスファブリックハウスへも弟子入り志願の子女が訪れるようになりました。

女性の志願が多い中で、新井さんはある日テキスタイルを勉強したいと訪れた男子学生に眼を留め、6万円払って仕事がてら勉強するよう勧めました。当時の平均給与が11万円だった時代、破格の待遇でした。そのしばらく後年、その男子学生に新井さんは会社を譲りました。

≪普賢山落との出会い≫
新井さんの旦那さんは東京芸大出のイラストレーターでした。

52年前ころ、写真家の大辻清司さんから浅間山の山すそに自然環境が残っている良い所があることを紹介されました。御代田町塩野に所在する普賢寺の住職がお寺周辺の所有地を別荘分譲する計画を知った大辻さんは、自然・風土を守る人間だけを集めて文化人村をつくりたいと語りました。

■余生を楽しむ

≪普賢山落に永住≫
第一線の生活を終え、新井さんご夫妻はそれまで別荘としていた普賢山落に永住することにしました。平成24年10年くらい前のことです。その10年前、平成14年頃住環境を整えるため、旦那さんの意向で山小屋は現在のスウェーデンハウスに建て替えていました。

≪新たな仲間たちと≫
ハートピアみよたのデイサービスは令和元年から週一回利用しはじめました。
ここで新井さんは経験を活かし、塗り絵の下絵デザインを始めました。

題材は花が多く、そのほかに御代田に因んだ龍神まつりのモチーフ龍、ゆるキャラみよたん、コロナ退散を祈願してのアマビエなど多種多様です。これにほかの利用者がクレヨン・色鉛筆などを使って塗り絵をします。新井さんは今緩やかな時空を楽しみながら日々を過ごしています。

これらの作品は、令和4年3月16日からハートピアみよたエントランスホールにて「デイサービスの塗り絵展」で展示公開されています。

≪生涯、他人を楽しませる≫
現役を退いてもなお、テキスタイルデザイナーの経験を活かして多くの人々の心を和ませ、楽しい日々を演出し続ける。まさに服地だけで時代を通り抜けてきた新井さんの真骨頂ではないでしょうか。